短歌についてのエッセイ
短歌で表現したいこと
短歌はたった31の音で作る形式の短詩。そこに連なった言葉がひとつの世界を作り出す時、その一首は、まるで魔法の言葉のように感じられる。 そんな短歌に出会ってしまったから、私は短歌を作りたくなった。私も、ひとつの世界を閉じ込めたような短歌を作りたい。でも、事はそう簡単ではなかった。 どんなに言葉を並べてみても、虚しい時期があった。そこにあるのは意味を成さない言葉だけで、五七五七七に合わせても舌触りの悪いものばかりで、短歌を作ることがうまくできなかった。 そうしたある日、自分の心と自分の周りの大気が一体となって、ひとつの世界を感じたのだ。それはただの空想の世界よりも現実の、でも非現実の世界。 そんな私だけの確かにそこにある世界に触れて、その感触を詠うことの可能性を知ったのだ。その可能性とは、非現実的な事象を、自分にとっては切実な現実として感じられること、 そして、それを私自身が確かなものとして表現できるのではないか、というものだった。今、私が短歌で表現したいのは、目の前にある一本のペンよりも、 舌の上の香り高く甘いワインよりも、ずっとこの肌の近くに感じられる、私にとっての世界の姿である。
そのときどきのわたし
短歌をずっと作ってきて思うのは、
私と短歌はとても密接にくっついているということ、
自分でも気づかないほどの奥の奥のほうにある感覚を表してしまうということ、
何年か経って、忘れていた自分がそこにいること、である。
空想を、または宇宙や自然のことを短歌に詠むのは、 それがこの上もなく私の中で切実だからで、けして甘い憧憬ではない、と思っている。
たとえば、「可能性の方角」にある
星の核より湧くごとき和声に砕け散りゆく空色の重力
音楽を聴いていて、あまりの感動に体が軽くなるような感覚に襲われたことを詠ったもの。
重力はこの星が存在する限り存在する。それを私の体は常に感じている。
その重さが消えていくように、体中の細胞が浮き立つのを私は確かに感じたのだ。
そして、当時の私はそのまま受験の憂鬱さえも、吹き飛ばして軽くなりたかったのだろう。
こんな形で、そのときどきのわたしは短歌の中にいる。
いま作っている短歌には、今のわたしがいるのだろう。
成長する私を表すように、短歌も変わっていくだろう。
もしかしたら、10年後には空想だの宇宙だの、そんなもののかけらもないような短歌を作っているかもしれない。
そのときどきのわたしを残す意味でも、短歌を作り続けたいと思う。
私にとって、切実な世界の姿を表現した短歌は、そのまま私自身を鏡のように映すだろう。
世界の姿
連作短歌は宇宙に似ている。それぞれは単独に認識されながら、密接に関係し、影響しあっている。ひとつの星にはひとつの物語があるように、ひとつの短歌にはひとつの物語があるが、それは完全に独立しておらず、何かに影響されて何かが起きたりする。
人は時に、孤独を感じる。この宇宙に存在する限り、何ものとも影響しあわずにはいられないのだから、孤独とは不思議な概念だ。人は己をひとつの個として認識したとき初めて孤独を感じるのではなかろうか。他の誰でもない自分という存在を確立するのは自分だけだと気づいたときに。孤独とは、宇宙を廻る星々のそれぞれの輝きを持ち、それぞれの軌道をゆくように、そして宇宙に吹く風に吹かれながら螺旋を描くように、己の道を歩く人が持つものである。そんな孤独な存在たちが交錯し、構成している世界は、偶然と必然の混ざった不思議な物語に満ちている。
それぞれの存在を追うだけでなく、一歩引いて全体を見ることで見えてくるのが世界の姿だとしたら、一首ごとにひとつの短歌として成立しながら、連作として並べたとき影響しあって生まれる物語は、まさにそれだろう。そんなふうに、この世界の姿を連作短歌で表したい。
短歌と絵との融合
作りたい物のひとつに、短歌と絵の融合した作品、というものがある。それを発表する場を作るためにこのサイトを始めた。実は私がサイトのデザインにこだわったりするのも、このことと関係がある。
去年の一時期そういうことをやってみたが、いまいちだったのでサイトから削除してしまった。高校生のころ一枚の紙に絵を描いて、短歌を書いて、それなりに気に入ったものが作れたのだが、いまの私は当時やっていた作り方を忘れてしまったように、うまく作れない。絵も短歌も確実にうまくなっていると思うのだが、それぞれが乖離しているようで、まるで多重人格だ。
そんなことを考えていたら、また高校生のころのことを思い出した。美術の授業で絵本を作ったのだか、私は詩画集(短歌も含む)を作った。今見返すと、絵はとても雑で、いいところと悪いところが混ざっている状態。詩だって見られたものじゃない。けれどはっきりしているのは、詩と絵が一体となってはっきりとしたイメージを提示していること。
私は、自分のイメージを明確にカタチにする方法を忘れてしまったのだろうか、そうでないことを自身に示すべく、これから作品を作らなければいけない。体の9割が水で構成されていながら、水中で生活できなくなってしまった生き物たちのようにならないために。
かたち
瞬間の心のふるえを表すのに、こんなにも適したかたちが他にあるだろうか。
理屈ではなく、説明するのもばからしいほどにささいなことが、
それでもいとおしいと思うのだと、誰かに伝えるのはとても難しい。
分かりやすい、記号的感情ではなく、頭ではとらえておきにくい心の動き。
小さな感動、驚き、幸せ、痛み。
ふっと垣間見るイメージに対するせつなさ。
説明すればするほど、自分が受け取ったものと違ってしまうような、
そんな不確かな何かを伝えるのに、短歌はすばらしいうつわだ。
概念のかたまりである言葉群から構成するにも関わらず、
説明的であることを拒否する31音のかたちは、
通常の文章では表されないことを、言葉のイメージのかさなりから生み出してしまう。
短歌を作るときにかたちが要求する表現、文法、言葉の使い方があるような気がする。
言ってみれば、かたちに力がある。
この力を借りて、うまく言い表せないことを、誰かに分かってもらえるのではないか、
と思って、短歌を作ることがある。
これは、幻想だろうか。
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